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 サッカーとは足でやるスポーツだ、ぐらいの認識しかなかったのに、何かのはずみで入部してしまったのが、そもそも私とサッカーの出会いでありました。

 高校時代はあまり主体的でなく、1年の終わりにレギュラー争いのとき左足を関節炎でいため2年の大半を補欠でいたことが、今から思えば人生の貴重な体験になりました。

 高校でサッカーをしていたことが、後々、私の人生を支配するなど夢にも思わなかった。世の中とはわからぬものです。

 2年生の終わりにやっとレギュラーになり、しかも、当時W.Mフォーメーション主体のサッカーが、4:2:4という新しいシステムをブラジルがワールドカップ・ロンドン大会予選に採用したこともあり、『大伴お前やってみー』との、恩師の浜先生の一言で決まり、4:2:4の2をやることになりました。

 よく動きが理解できないまま、後の話ですが、全国大会優勝した洛北高校との試合に挑みました。その時の私の対面(マークをお互いする相手)は、10年後に全日本の主将になった今井敬三氏でした。

 写真を見ていただければわかるのですが、多くの女子高生が見にきてくれました。が、私は競り合いで局部を強打し、途中退場をして『俺の人生もうこれで終わりだ!』と真剣に思ったことを思い出します。実は、その当時大好きな女の子が来てくれており、その真ん前での出来事でしたから。

 写真を掲載してますが、2年のときの対嵯峨野高校戦でも、実は、この写真のカメラマンは、当時つきあっていた瞳の綺麗な彼女でした。つまり白状しますが、何故、当時サッカーやバンドを一生懸命したかというと、あたりまえのことで、『女の子にもてたい一心』でした。きわめて?純粋な高校時代でした。

 こんな、動機で、サッカーを始めました。(きわめて、まとも?)

 

soccer111年生の時(昭和40年・秋)練習後のグラウンド整備

 

soccer12やはり1年生の時、同級生と。私は前列右端

 

soccer13 2年生の時(昭和42年2月)桃山高校グランドで対嵯峨野高校戦。
実は写真中ほど左隅に写っているのが、息子一真の妻の父、松尾悟氏。
当時京都ではナンバーワンのセンターフォワードでした。

 

soccer14 こちらも2年生の時の嵯峨野高校戦

 

soccer153年生の春、対洛北高校戦、右から二人目が私。
真ん中の洛北高の選手は後の全日本主将、今井敬三氏

 

soccer16同じ試合 この年に洛北高校は全国優勝しました。
初の4:2:4の陣形で2(ゲームメーカー)に

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