Masanori Otomo Official Site
プロフィール

プロフィール » サッカーのこと » 北開田子ども会早朝サッカークラブ時代 »

 昭和53年に市役所の人事異動で、市教委・社会教育課・社会体育係から、希望した市立北開田児童館・児童厚生員に配置転換になりました。希望はしたものの、学生時代はまじめな連中は学生運動に参加していたけど、もっぱら中途半端系の私は、麻雀とバイトに明け暮れていたため、ろくな勉強もしていなかった。その私が厚生員である。できることはサッカーしかなかったのです。

 結論を先に言うと、ここでの青年たちとの関わりで私の生き方が変わったのですが、この児童館での私の担当は(上司の方の命令ではなく、自然にそうなったと今でも思っている)表現は悪いが、いわゆる荒れた子供・青年たちでありました。社会に対しては先生をどついたり親や大人たちに反抗していた青年たちですが、寝食をともにするうちに、実は彼らの言い分が正しいことに徐々に気がつかされてきました。言い分だけでなく『生きている』のです。

 つまり、今もそうですが、嫌なこととか関わりたくないことには知らん振りしている大人や、成績のいい青年たちがいました。でも、彼らは、うれしいことはすなおに喜び、悲しいことには一緒に泣き腹立つことには友と一緒に怒れるのです。

 これが『本当の人間の姿だと!!』と心から思いました。ただ腹立つときの怒り方が、社会的に適切でないだけなのです!そこで、サッカーが役に立ちました。みんなサッカーが大好きでした。(そう誘導したのかもしれません)

 その青年たちに子供会のサッカーの指導をたのみました。でも「サッカーは大伴はんにまかす。俺ら私らは、ポートボールとバレーボールの指導をする」というのです。(その当時本市の子供会では、男の子はサッカー、女子は小学生がポートボール、中学生がバレーボールの中央大会があった)しかも毎朝早朝6:45から365日やるというのです。昭和57年11月のことでした。

 中心になった4人の青年(男子3年、女子1人)のもとに、多くの当時いろんな問題を抱えた高校生、高校中退生、中学生が加わり、毎朝、深田公園に自分たちの後輩たちの為に、指導に来てくれました。この実践を中心に、地域の基本的な課題を解決するのだと、青年達の活動に地域の大人の皆さんも理解を示し、やがて応援していただくようになりました。感動の日々でした。

 そして4年と数ヶ月、仕掛け人であった責任上、毎日、たとえ夜2時3時帰りであろうと、毎日サッカーを子供たちとするため、早起きして深田公園に通いました。その結果、校区大会は向かうところ敵なし、中央大会(長岡京市の10小学校区代表がトーナメントで争う試合=昭和48年社会教育課の新米議員の私の企画でその年から実現したもの)では、2年連続、涙の優勝をかざりました。

 この頃が、私とサッカーが一体化した時期です。

 余談ですがその当時、指導者だった4人は、1人が児童館の厚生員(私の後継者)。もう1人が小学校の先生(この子?の子供を昨年まで5年間サッカー少年団で担当コーチとして親子2代関わらせていただきました)さらに、そしてもう1人が、市の議員として私的に市のミニバレーの事務局長をされています。そして紅一点の女性は、西宮で災難に合うも元気に1人娘さんと、私と同じ歳のご主人との円満な家庭の主婦として生活なされています。

 その他、当時サブ指導者としてきてくれていた諸君の多くは、今やいいお父ちゃんお母ちゃんをしていますし、教え子たちは地域のリーダーとして、社会の最前戦の戦士として、家庭を守る戦士として等、それぞれの立場で活躍なされています。

 

soccer31昭和60年2月、子供会サッカー中央大会で優勝!私は後列左から3人目

 

soccer32児童館時代におぼえた“技” 私が担当した人には全員、教えたはずです。
でも、出来る人は少ないね!

 

soccer33昭和61年3月、洛西浄化センターグラウンドで市長杯に参加

.