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プロフィール » サッカーのこと » 八条が丘子供会早朝サッカークラブ時代 »

 昭和61年に、息子 一真が小学校に入学するので、何とかその当時一緒にサッカーをやっていた子供たちが通学する6小学校区に住みたいと思い、60年の夏に八条が丘に引っ越してきました。

 61年に8年間勤めた、児童館勤務が人事異動で本庁の社会福祉課に配属になり、1年間少年団活動と大人の長岡京クラブのみのサッカー生活だったのが、62年に当時の八条が丘子供会の役員さんの目に留まり、町内の子供会のサッカーのコーチを引き受けてくれないかとの打診があり、自分の息子(当時2年生)も参加したいとのことでもあり、条件付で引き受けました。

 今から思えば、馬鹿な条件を出したと思うのですが、やるからには試合2か月前から、毎朝子供が学校に行く前に練習をしたい。

 目的は、サッカーの優秀な選手を育てることでなく、仲間づくりと日常生活習慣の確立。サッカーは手段というものでした。

 自分の子供にはじめて父親らしいかかわりが持てる場をとして、はじめはその程度の気楽な感じで、2、3年続けていました。ところが子供たちは毎年10月が来るのを楽しみにしてくれており、私自身、徐々に熱が入ってきました。

 もちろん目的にしていないに、結果として毎年、校区大会は圧倒的勝利で中央大会でも、その当時わたしが教えていた、サッカー少年団の多く居る子供会に対してでも互角に近い勝負をするようになってきました。そして、最後の試合は、勝っても負けても6年生は全員後輩の前で泣き、後を託すのが伝統になってきました。

 そして、やがて、卒業生が、必然的に、必ずコーチとして、朝の練習に参加するようになってしまった。10年かかったが、青年団の完成でありました。今の地域では、同級生すら、卒業すれば知らない顔をする。まして、若い世代ほど顕著である。昔の、良いも悪いも、昔の青年団の知るものの一人として、自分の息子世代には、その一部でも経験させてやりたかったのです。

 この頃はもう、私とサッカーは切っても切り離せない、私の人生のよき手段になった時期でした。

 余談ですが子供会サッカー大会は平成10年をもって、子供人口の減少という大人の勝手な理由で、ドッヂボール大会に変更になりました。(確かに児童数は各子供会において減少していました。でも子供会後援会と名乗る大人集団が、本当に子供会の目的や意義を理解しているのなら、死に物狂いでも子供たちを組織化することは、まだまだ、可能だと思えたから)したがって、八条が丘子供会サッカークラブは消滅したのです。

 しかし、子供たちは立ち上がりました。

 今も八条が丘子供会O.Bサッカーチームとして、市長杯サッカー大会(私達が作った大会)に毎年参加していますし、お正月には必ず、北海道からでも、結婚していても、初蹴りに参加してくれています。昨年はO.B有志の5名が校区の市民運動に役員として、参加してくれました。ああ……青年団は、今も存在する!!でも、この子供会にかかわった子供たちの約半数以上は遠くに転居の現実!

 

soccer40昭和62年度メンバー 現在この中で天神ハイツに住む人は3人のみです

 

soccer41朝の練習風景音も立てず整然と自分の役割を果たします

 

soccer42まさしく異年齢軍団、左から6年山本・5年大伴・3年市島・2年小泉・1年田中

 

soccer43平成3年度校区大会優勝、中央大会準優勝

 

soccer44校区大会決勝、息子のシュートの瞬間

 

soccer45平成4年度校区大会優勝、中央大会インフルエンザため中止。残念でした!

 

soccer46平成6年度中央大会で

 

soccer47平成7年度校区大会優勝、後列の端が親子です

 

soccer48平成9年度、コーチ軍がかなり大きくなりました

 

soccer49平成12年八条子供会OBチーム京都新聞草の根スポーツ賞表彰のときの写真

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