Masanori Otomo Official Site
プロフィール

プロフィール » サッカーのこと »


昭和48年に創部した時は23歳の私が1番の年長者で非常に若いチームでした。当初はユニホームもそろわず、ばらばらのスタイルで練習試合をしたのを、覚えています。

当時よく相手をしていただいたのが日立マクセルさんと広海クラブで、翌年の4月に待望の京都社会人リーグ4部に加盟し、2年目の50年度のリーグで優勝し、3部への昇格を果たしました。(この最後の試合で、ハンドで決勝ゴールを決め、涙の胴上げで、落とされてしまい=当時よくはやっていました=それ以降腰の調子が悪くなった苦い思い出もあります)

ちょうどこの頃から週2回、吉祥院グランドを借りて練習をするようになりましたがグランドを借りる手続きが大変で、(今もですが…)月1回平日の昼に、西京極のスポーツセンターに行かねばならず、当時学生だった小国(現姓:久保田)さんにお世話になり、その後、私が休みをとってしばらく通い、その後は今もずーと、私と中学から大学までの同級生で親友の山田憲一さんにお世話になっています。

 

soccer511昭和52年:大谷グランドで、センターフォワードの私

 

その当時の思い出としては、このころ私はちょうど新婚で借家住まいでしたので、私の家がよく宴会場になったもので、日曜日は朝から少年団、昼からクラブで試合、そして、夕方から、私の家でミーティングという名の宴会が生活スタイルでした。そして、昭和52年には3部で優勝を果たし、練習頻度も上がり、毎月1回は三菱電機チームと練習試合をさせて頂き、当時の代表の脇村さん(現在の高の原FC代表)に大変お世話になりました。さらに少しでも多く試合がしたいということで、グランドを持っているチームを探しまわりました。でも限界があり、それなら自分たちで大会をしようということで、市長杯大会を立ち上げ、その延長線上で長岡リーグをたちあげました。

 

soccer512背番号は100番をつけるまで、ずーっと10番を独占!

 

平成元年に2部優勝を果たし、念願の1部昇格。この頃から部員数も多くなり、2チーム登録を始めまして、立ち上げ期のメンバーの加齢に伴いシニアチームを結成し、八幡市のシニアのカップ戦等に参加するようになりました。私は当然のこととしてシニアのチームに所属し、それぞれユニークな背番号をということで、私は長年つけた10番と決別し100番という非常に重たい背番号をつけるようになり、合わてユニホームも少年団とお揃いにいたしました。

 

soccer513昭和56年当時のメンバー+息子の一真、満1歳

 

平成5年には少年団と共催で、20周年記念の大会を行い、記念誌を発行し、長年の功労者を表彰し、広く長岡京市をサッカーの街にという私たちの夢をアピールいたしました。

 

soccer514-2

 

そして、同時期から、1部でさらに上を目指すAチームと、楽しくプレーするBチームと、シニアチームの3チーム登録で、自分の好きなチームに入れるクラブの形が確立いたしました。

余談ですが、このBチームで7番をつけて今や中心的に活躍してくれているのが息子一真で、思えば少年団を創設した、そもそもの動機であった訳でした。30数年ほど前、将来生まれてくるだろう自分の息子にサッカーをさせたい!その受け皿として少年団を創るという夢が実現し、さらに学生時代を中心に計8年間少年団の指導員もしてくれました。

そしてまだ達成できていない夢、すなわち『長岡をサッカーの街に』に向け、多くの仲間の皆さんと、頑張っていきます!

私は今は当然、シニアチームの大黒柱(足引っ張りという声もある)として今も現役のプレーヤとして、最低年間数試合は、出場しており、自分自身が勝手に決めている、44年間毎年得点の記録の更新を目指し頑張っています。

しかし、今のシニアのシステムでは40歳以上の規定なので、教え子と一緒にプレーしているのが実態ですので、プレー自体かなり厳しくなってきており、自分たちの年齢にあったリーグ作りが私の次の目標になっています。私にとって、このクラブは、自分自身がいつまでもプレーする大切な居場所なのです。

 

soccer515平成10年八幡市長杯シニア大会優勝

 

このクラブは、サッカーが好きな人であれば誰でも入れますし、約束事は部費を払うことと、連絡を必ずするくらいです。現在は、A.B.C.シニア、そして昨年できたFC47の計5チーム、登録人数約200名の大世帯で、週2回(土、月)夜間8時から9時に吉祥院グランドで練習をしています。なお部費等はチームによって、多少異なります。入部希望者は、トータルマネージャ北岡節夫さん 392−1836 又は練習会場に直接お越しください。

 

soccer516園部に於いて創設30年記念大会

 

soccer517平成18年9月24日 藤井寺シニア大会優勝

 

soccer518平成20年1月13日 宝が池球技場で

 

soccer519平成20年5月公式戦で、この日2得点しました<

 

平成23年7月 家長昭博選手と宇佐美貴志選手が6月にジャパン代表に選ばれたのを祝し少年団と共催で、囲む会を開催し、大いに盛り上がりました。

 

soccer1309-01

 

soccer1309-02

 

平成25年6月 少年団と正式に統合し、長岡京クラブとし、40周年記念事業を盛大に京都市内のホテルで、市長以下多くの来賓の方を招いて実施しました。

 

soccer1309-03

 

soccer1309-04

 

プロフィール » サッカーのこと »

 長岡京サッカークラブと長岡京サッカースポーツ少年団が主催して、昭和53年の4月に第1回大会を開催しました。

 この大会は、あくまで自分たちが、少しでも多くサッカーをしたいとの願望にもとづくもので、クラブ員総出で大会を運営しました。当初は社会人チームは我がクラブ以外すべて市内にある企業チームで、クラブチームは存在しなかったのです。

 社会人の部、中学生の部、小学生の部の3つのジャンルでスタートしました。

 第4回大会まで主催し、第5回からは他の企業チームに「協会を作ってやりましょう」と呼びかけ、趣旨に賛同して頂き、ここに長岡京市サッカー協会を誕生させたのでした。

 ニチユの藤村さん、三菱の脇村さん、立石の西村さん、乙訓教員の亡くなられた熊田先生など多くのサッカー好きの方々が、協力してくださいました。そして、市役所の河村さんが実質私の後を引き継ぎ、現在も続けていただいております。今は社会人の部しかありませんが、多くの若い人によるクラブチームの参加があり、隔世の観があります。

 私もここ数年、八条OBチームで参加しています。会場でよく挨拶されますが、何年卒団(少年団)の誰だったか名乗って下さい。小学生の時代の面影が残っている人も中にはおられますが、ほとんどわかりません。

 

soccer521昭和54年の第2回大会 五十棲市長と大伴大会会長(若干29歳)

 

soccer522優勝トロフィ返還 中学生の部
北開田子供会山本達也主将から大伴会長へ

 

soccer523評判になった長々と続く会長あいさつ

 

プロフィール » サッカーのこと »


昭和48年4月22日に発足した団は、当時代表が私で、指導委員長に現副団長の河村弘美さん、現指導員の山下昌行さんら数名と5.6年生34名でスタートいたしました。

 

soccer5301指導員の車で後列左から、河村、大伴、山下 子供達は今50歳前

 

当初は今のように試合もほとんどなく、年に何回かの試合は保護者会の組織もなく、指導員の車での参加でして、練習もグランドは傾斜のある六小グランドを、教育委員会の職員の顔という関係でお借りして練習をしていました。

練習は、日曜日の午前中のみで、その後、長岡京クラブの試合に参加という日々が続きました。それでも、夏は合宿を計画し、主に亀岡に行っていたのですが、桂で阪急を降り、京都バスでの往復で一度、子どもがバスに酔い老の坂で、私と2人下車して、3時間ほど待ったのを、記憶しています。当時は勿論、携帯電話もありませんでした。

 

soccer530248年に亀岡合宿で

 

昭和54年くらいまで、田村コーチと2人で、こんなリズムで楽しくやってきましたが、私が日曜日勤務(児童館勤務)に異動してから、田村コーチにかなりの負担をおかけしました。ところが、昭和60年に完全復帰してからが大変でして、2,3年で団員が増え始め、指導員が足らなくなり、長岡京クラブの人をほとんど強制的に指導員になっていただきました。

 

soccer5303昭和62年・神足小グランドで2年生

 

その中で、嬉しいことに第1期卒団生の中から大和君、羽二生君、そして第三期生の糸藤君らが指導員に就任してくれたのでした。そして、平成元年には団員が300人を超え、その当時の6年生(昭和52年生まれ)は、ABCDEの5チーム編成で、指導員もそれぞれ1人だけでした。またその年から、姉妹都市である伊豆長岡町との交流が始まり、今も20年以上続く交流をさせていただいており、わが団の一大イベントになっています。

 

soccer5304昭和63年草の根スポーツ賞の表彰写真の為全員で人文字。
於・神足校/大和カメラマン

 

平成2年には、これまで一度も公式戦での優勝体験がなかったのですが、初めて当時の日越コーチ率いる4年チーム(元サンガの大槻君らが在籍)が新人戦で、優勝をしたという嬉しいことがありました。それ以降、毎年どれかのチームが公式戦で好成績を挙げるようになりました。

 

soccer5305平成5年6年SS新人戦優勝、市長への報告
(この中に、山本君石田君の現役プロがいます)

 

でも、一方で、勝ちに行くのか?、楽しむのかという論議が盛んに行われ、私は最後まで、小学生の段階では、日本一を目指すのは,目的ではなく、あくまで結果であるとの自説を譲りませんでした。しかし、意欲や能力の高い団員の欲求も、認めざるをえず、高学年はだいたい3チームでしたので、A・B・B’という編成で、(A・B・C編成で失敗をした)卒団をしていただいておりました。

 

soccer5306平成5年3月・一度も勝てなかった6年Cチーム・涙のお別れ会

 

私はそれまでは、低学年担当でしたが、どうしても意欲と能力の劣る子供のチームの指導員のなり手が少なく、BチームないしはCチームの指導員を担当いたしました。でもこれらのチームが私にとって1番の思い出のチームで、今も同窓会をしてくれているチームがあり、指導員冥利につきるのです。

平成7年には、息子一真が高校1年生で指導員をやるということで、当時の5年生B(FC)を二人で担当しました。このチームもはじめは勝てなかったのですが、最後にはライバルチームに勝つなど、すごい成長した思い出のチームでありました。

 

soccer5307平成9年1月6年FC最後の試合

 

そして平成10年度には、小島コーチ率いる6SSが初めての全国大会に出場を果たし、さらに、京都の6年生の公式戦すべて優勝という偉業を成し遂げたのでした。(このチームには、のちに全日本にも選ばれた家長君や渡辺君らの優秀選手がいた)

私は平成9年の4月から、気分を新たにして新1 年を、息子と一緒に担当して、平成14年に卒団するまで、初めて通しで6年間担当をさせていただきました。このチームには数々の語りつくせない程の想いでがあり、中でも1番気遣ったのは、たとえ親の勧めで(低学年は殆ど)入団してきた子供でも、サッカーを好きにさせることで、おかげでほとんどの子が卒団まで頑張ってくれたことが1番印象に残っています。

 

soccer5308平成12月5月4年SSかんなべ合宿

 

soccer5309平成13年7月5SS伊豆長岡の田方カップで優勝

 

6年間の試合の記録と写真を中心に、子供達や指導員の夢や願望を綴った 手製のアルバムを卒団のときに渡せたことが、喜びでありました。

その後しばらくは、指導員をしていても、団の運営状態がうまく機能していなくて各学年チームが、勝手に行動している状態が続き、団消滅の危機すら感じさせられたのでしたが、平成16年に小島コーチ率いる6SSが、2回目の全国大会出場を果たし、溜飲を下げたのでした(のチームには、現ガンバ大阪の宇佐美選手がいました)

そして、三度団長就任を要請されて、平成18年度から団再興に向けて励んでいる毎日が続いています。

 

この頃(平成17年)には全国紙の取材を2回受け、これが記事となりましたので、紹介いたします。

 

soccer5310-2日本教育新聞 2007年6月25日掲載
★画像をクリックすると大きくなります

 

soccer5311

soccer5311-kizi週刊サッカーマガジン 2007年10月2日号掲載
★画像をクリックすると大きくなります

 

■平成19年以降の写真集

soccer5312子供達に囲まれて/H19.10.28

 

soccer5313絶妙のパス(本来私はパッサーです)/H19.10.28

 

soccer5314宇佐美選手からのパスを受け子ども相手に突破を図っています。
(後ろに映っているのがガンバ大阪の宇佐美選手)/H21.1.5

 

soccer531521年度は、4年生を担当し、このチームは6年生の時全国大会予選の
決勝戦で惜敗するも、同じ公式戦のセレマカップでは全勝優勝でした。

 

soccer1309-01

soccer1309-02平成23年7月 OBの家長選手と宇佐美選手が日本代表に選ばれ、お祝いの囲む会を盛会のうち、開催しました。

 

soccer1309-03

soccer1309-05平成25年6月 大人のクラブと正式に組織統合し、40周年記念事業を開催し、OBの宇佐美選手も来てくれました。ビンゴゲームでは宇佐美選手が1番楽しそうでした。

 

soccer1309-06平成25年7月 毎年恒例の姉妹都市の伊豆長岡少年団遠征に、6年生とともに参加し20数年来のお付き合いの佐藤総監督と昔話を…

 

soccer1309-07平成25年8月 これも毎年恒例の、浜松のさなる少年団に4年生とともに参加し、大歓迎を受けました。

 

 

少年団について詳しいことは、
長岡京サッカースポーツ少年団のホームページをご覧ください!

soccer1309-08
長岡京サッカースポーツ少年団 http://www.nagaokakyo-ss.com/

プロフィール » サッカーのこと »

 昭和47年の12月、市教委・社会教育課にその4月に配属されて半年余りで、初めて自分が企画した事業が実施されました。それは教委主催の『長岡京市・少年サッカー教室』でした。

 勿論、講師は23歳になりたての私一人で、まず市内の小学校にポスターを貼りに行きました。わくわくしました!何人応募してくるのか、ドキドキしました!

 結果、34人の5・6年生が来てくれホッとしました。向日市で指導員をしていたといっても、かなりいい加減な指導でしたから、その当時はほとんど無かったサッカーの指導書を探しに、京都中の本屋さんをまわりました。

 でも、見つかりません!仕方なく腹を据えて、初めて仕事でサッカーを手探りで教えました。反応は私の感触ではイマイチで、予定の8日間が終わりました。

 間もなくして教えた子供達の何人かから年賀状が届き、そこにはこう記してありました。「もっと、サッカーを教えてほしい」と!!

 それからの数ヵ月、サッカースポーツ少年団を立ち上げるために、今の妻とのデートもおろそかに(昭和49年3月結婚しました)してまで、夜遅くまでいろんな方にお願いをしたりして、やっと昭和48年4月22日に発足出来たのでした。立ち上げ期に京都サッカー協会の会長の藤田静雄さん(メキシコオリンピック団長〜その後日本蹴球協会会長)に文句を言って、大声で叱責を受けたのも今思えば良き思い出であります。

 そして多くの仲間たちに出会え、その年の6月3日に指導員たちも自分のサッカーがしたいということで、長岡京サッカークラブを立ち上げたのでした。


 (1)長岡京サッカークラブ

 (2)長岡京市市長杯争奪サッカー大会

 (3)長岡京サッカースポーツ少年団(長岡京SS)


プロフィール » サッカーのこと »

 昭和61年に、息子 一真が小学校に入学するので、何とかその当時一緒にサッカーをやっていた子供たちが通学する6小学校区に住みたいと思い、60年の夏に八条が丘に引っ越してきました。

 61年に8年間勤めた、児童館勤務が人事異動で本庁の社会福祉課に配属になり、1年間少年団活動と大人の長岡京クラブのみのサッカー生活だったのが、62年に当時の八条が丘子供会の役員さんの目に留まり、町内の子供会のサッカーのコーチを引き受けてくれないかとの打診があり、自分の息子(当時2年生)も参加したいとのことでもあり、条件付で引き受けました。

 今から思えば、馬鹿な条件を出したと思うのですが、やるからには試合2か月前から、毎朝子供が学校に行く前に練習をしたい。

 目的は、サッカーの優秀な選手を育てることでなく、仲間づくりと日常生活習慣の確立。サッカーは手段というものでした。

 自分の子供にはじめて父親らしいかかわりが持てる場をとして、はじめはその程度の気楽な感じで、2、3年続けていました。ところが子供たちは毎年10月が来るのを楽しみにしてくれており、私自身、徐々に熱が入ってきました。

 もちろん目的にしていないに、結果として毎年、校区大会は圧倒的勝利で中央大会でも、その当時わたしが教えていた、サッカー少年団の多く居る子供会に対してでも互角に近い勝負をするようになってきました。そして、最後の試合は、勝っても負けても6年生は全員後輩の前で泣き、後を託すのが伝統になってきました。

 そして、やがて、卒業生が、必然的に、必ずコーチとして、朝の練習に参加するようになってしまった。10年かかったが、青年団の完成でありました。今の地域では、同級生すら、卒業すれば知らない顔をする。まして、若い世代ほど顕著である。昔の、良いも悪いも、昔の青年団の知るものの一人として、自分の息子世代には、その一部でも経験させてやりたかったのです。

 この頃はもう、私とサッカーは切っても切り離せない、私の人生のよき手段になった時期でした。

 余談ですが子供会サッカー大会は平成10年をもって、子供人口の減少という大人の勝手な理由で、ドッヂボール大会に変更になりました。(確かに児童数は各子供会において減少していました。でも子供会後援会と名乗る大人集団が、本当に子供会の目的や意義を理解しているのなら、死に物狂いでも子供たちを組織化することは、まだまだ、可能だと思えたから)したがって、八条が丘子供会サッカークラブは消滅したのです。

 しかし、子供たちは立ち上がりました。

 今も八条が丘子供会O.Bサッカーチームとして、市長杯サッカー大会(私達が作った大会)に毎年参加していますし、お正月には必ず、北海道からでも、結婚していても、初蹴りに参加してくれています。昨年はO.B有志の5名が校区の市民運動に役員として、参加してくれました。ああ……青年団は、今も存在する!!でも、この子供会にかかわった子供たちの約半数以上は遠くに転居の現実!

 

soccer40昭和62年度メンバー 現在この中で天神ハイツに住む人は3人のみです

 

soccer41朝の練習風景音も立てず整然と自分の役割を果たします

 

soccer42まさしく異年齢軍団、左から6年山本・5年大伴・3年市島・2年小泉・1年田中

 

soccer43平成3年度校区大会優勝、中央大会準優勝

 

soccer44校区大会決勝、息子のシュートの瞬間

 

soccer45平成4年度校区大会優勝、中央大会インフルエンザため中止。残念でした!

 

soccer46平成6年度中央大会で

 

soccer47平成7年度校区大会優勝、後列の端が親子です

 

soccer48平成9年度、コーチ軍がかなり大きくなりました

 

soccer49平成12年八条子供会OBチーム京都新聞草の根スポーツ賞表彰のときの写真

.